那須ピーマンのドーンといってみよう

オフレポを中心とした那須ピーマンのブログ

音MDM後記 其の弐【道標編】

 どうも、最近愛犬によく顔を舐められる那須ピーマンです。

 

 音MAD DREAM MATCH(以降 音MDM)が終わって興奮…というよりはホッとしています。前回は反省点をずらずらと書かせていただきましたが今回は趣向を変えて音MDMはどのように完成していったのか、始まりから放送終了までの歩みを私の脳ミソをほじくりかえして書いていきたいと思います。題して「道標編」です。「みちしるべ」です。

 

 

12月「発案」

 音MDMの前に、実は「M-1」という企画を考えていました。記憶は曖昧ですが、ふぁ修院さんが12月19日頃に「音MADでM-1グランプリやったら面白いのでは」とツイート。それを拝見して音M-1の企画書を考えていたところ

M-1よりも芸人ドリームマッチみたいな企画の方が面白くないか?

と思い夜にツイート(ツイートは削除されています)。かなりの反響をいただいたものの、音MAD企画は初主催であり、スマブラのイベント主催は4回ほど失敗しているため「自分は主催に向いてないから誰か主催してくれないかな」と思っていましたが、これまで「東西対抗合作」や「音MAD ラジオ」を他人に任せた結果実現しなかったことを挙げられ「そろそろ言い出しっぺの君がやってみたら?」と背中を押され、近所のコンビニでDARSホワイトチョコアイスを食べながら主催を決意。帰宅後ツイキャスにて開催宣言と概要説明、作者把握をしました。この時、恥ずかしい話ですがかなりの音MAD作者の名前を把握しておらず、√effectさんを「√effectで検索さん」と呼んでしまったり、仲邑飛鳥さんを「誰?」と呼んでしまったりしていました。この状態からよく40人も呼べたな。最後に参加者名をYO-KAI Discoに合わせて歌った結果ニコニコ動画にmega(目が)さんに晒されてしまい、削除要請。これがmega(目が)さんとの初コンタクトになりました。このツイキャスで決まった企画概要は最後までほとんど変わりませんでした。変わったことといえば、生放送日が5月5日から8月4日に伸びたことくらいでしょうか。何はともあれ発案日の12月19日はなかなか濃い1日になりました。

 宣言ツイキャスの後に「運営に興味のある方は連絡ください」と呼び掛けたところあつんどsonさんとえむくろさんが駆けつけてくれました。

 12月下旬のコミケでの作者オフでも少々話題になり、主催経験豊富なowataxさんから主催の心構えなどのアドバイスを受けました。「困ったら何でも運営の相談してね」とありがたい言葉をいただきましたが、この時から「この人を呼ぶなら参加者側だろうな」と思っていました。

 私は栃木に帰り、10選を見ながら年を越し12月が終わります。

 

1月「招集」

 運営も揃い参加者選びが始まりました。運営には相談せず私の独断で選んでいます。はじめは「2017年の10選で多くの票を得ている人」「過去の10選で評価された人」「音MAD界のレジェンド」に私や運営の二人づてで声をかけられる範囲で片っ端から声をかけていきました。「○○さん誘わないの?」と言われたような人はほとんど呼んでいます(上限人数の都合で声かけできなかった方々もたくさんいます)。20人くらい集まればいいだろうと考えていました。しかし帰ってくる返事のほとんどは「イベントに期待していますが参加できません」というものでした。もちろんこの時点で企画に参加を決めてくれた参加者もいましたが、気分はさながらクリスマスに参加者が来なかった星飛雄馬です。

 

2月「延期」

 辞退者の理由の大半が「期限が短い」ということでした。まだ企画段階ということもあり2月5日の夜に延期を決意。ツイキャスにて意見を伺い、絶望さんの提案の「オフで生の反響を聞ける夏コミ1週間前の8月4日」にその場では異論が出なかったためそのまま決定しました。このツイキャスの後に1時さんから「企画を影から協力をさせてほしい」と連絡が届きました。企画の今後をかなり心配してくださっていました。今思えば、この連絡がなければ企画は倒れていたかもしれません。1時さんの加入により音MDMが強固なものになっていきました。辞退者にもう一度招集をかけたところ、延期したこともありかなりの参加者から了承をいただけました。30人ほど人数が集まっていましたがまだ足りないと思い、「自分が音MADを作る前から投稿動画を知っていた作者」「音MADにおける各ジャンルの代表的人物」を中心に再び声をかけ、2月28日を最後に36人の招集が完了しました。1時さんからは26人の時点でも36人の時点でも「これ以上誘わないでくださいね」と釘を刺されました。「50人誘えるかな」なんて考えていましたがさすがに止めました。40人の参加者と連絡を取り合う手間を知らないからこそできた(やってしまった)行動でした。

 企画が発案された12月の段階で音MDMの仮ロゴを作成していただいていた、れでぃばさんに本格的なロゴ制作を要請。1時さんからのアドバイスもあり、あのかっこいいロゴが完成します。初めて見た時はすごく興奮しました。音MAD界隈は才能の総合市場や。

 

3月「始動」

 3月1日、ついに企画が公開されました。と言っても、これまで公開会議の様相でツイキャスをしていたので事情を知っている人にとっては「やっとか」というような気持ちだったかと思います。最初の告知は自分で作りました(と言っても一部、1時さんに協力やアドバイスをいただいています)。この告知で参加者の半分とセンバツシステムを公開。しかし「まだ参加者がいるはずなのにセンバツをやるのはどうなのか」ということで急ごしらえですが猫背さんに残りの参加者の告知を制作していただくことに。なんとか全員公開となり、センバツ投票が行われました。伊尻さん、なんかの人さん、remmuhさん、味噌煮さんの4名が選ばれました。4人とも交渉に苦戦しそうでしたが投票の後押しの影響もあったのかすんなりとOKを出してくれました。特に味噌煮さんの誘い方は特殊で初めて案を聞いた時は頭の回転が追いつかずちんぷんかんぷんでした。まさかあの動画で了承していただけるとは。

 3月2日、岩鉄ハガネールさんに立ち絵制作の協力を依頼。岩鉄さんは動画もうまいので告知動画での協力も考えていましたが立ち絵を担当してもらうことになりました。絵師に依頼する際は報酬金などを支払うのが常識ですが、「報酬金を支払えませんがよろしいでしょうか」と条件提示したところ快く了承していただきました。ありがたい…!3月31日にやっと本格的に立ち絵の話が進み、岩鉄さんに過酷なスケジュールが襲い掛かることになりました。

 3月19日からついに指名が始まり3月下旬にかけてどんどんコンビが結成されていきました。この時、参加者同士の指名がしやすくなるようなアンケートをとっていたのですが集計作業が大変でした。波乱の指名期間でした。

 

4月「告知」

 全コンビ決定後、1時さんから「告知動画を作りましょう」と提案がありました。当初、岩鉄さんの立ち絵は第3弾告知として格ゲーのOP風に一挙に使用されるはずでしたが予定を変更しコンビの紹介として20回告知をするとのことでした。「めっちゃいい!」と思いましたが、告知にかける労力が心配でした。結果、高クオリティの告知が何本も完成することになりましたが、身を削りながら告知の監督とも言える立場を担ってくれた1時さんに頭がさがる思いでした。一方、僕は「前夜祭にバラエティ番組MADを作る」と約束しましたが結局実現せず。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。1時さんと岩鉄さんは7月末まで文字どおり身を削りながら告知制作に励んでいました。二人がいたことでこの企画に華が出るようになったと言っても過言ではありません。

 

5月「不穏」

 4月からはやることも安定し始め1時さんは告知、私はバラエティMADと作業を進めていく段階だったのですが、5月19日のウメハラ誕生祭に向けて私は音MADを作り始めてしまいます。個人的にはウメハラ誕生祭は外せない1日なのですが、運営業務を投げ捨ててまでやることではない。1時さんと私の間に少しづつ不和が生じていたと思います。さらに、企画立ち上げ当初から運営として協力していただいていたあつんどsonさんやえむくろさんにも仕事を割り振ることができず、徐々に歯車に歪みができていくのを感じました。5月に溜まった悪い予感は徐々に姿を現して行きます。

 

6月「直接」

 Ban長さんが運営に加入してくれたのはこの頃だったと思います。音MAD LIVEなどの経験から主催としてのあり方をアドバイスしていただきました。

 某日、某氏と通話。不和が大きくなり、直接話をしないといけないと感じました。ここで運営の舵取りを再確認。私の仕事は「企画の柱を一本だけ立てたこと」だけで、周りの方々がその柱から強固な壁や、彩り豊かな装飾をしてくれることで豪華な家のようになり、周囲への見栄えが良くなりイベントが豊かになっていく。そんなイメージを共有することができました。

 6月16日にotoMDM Directを提案するも自ら作り始めた動画が完成せずに延期。「後先考えずに行動する」という癖が悪い方向に現れてしまいました。自分はただでさえ足手まといだと考えていた矢先にこのような失敗を犯してしまったため、Twitterで延期告知をした時は「せっかく積み上げてきたものに自分から泥を塗ってしまった」と、しばらく起き上がれないほど苦しみました。複数人と通話し、「主催は絶対に倒れない、逃げ出さないだけでいいんです」と励まされ、1週間後のotoMDM Directで再出発を図りました。

 6月24日、無事(?)otoMDM Directが終了。かなり嬉しい反響をたくさんいただき「やっと自分も企画に貢献できた」と、先週ゼロになった自信を取り戻すことができ「主催を続けよう」と気持ちを持ち直すことができました。

 

7月「波乱」

 7月は大好きなスマブラもせずに音MDMに集中しようと決意した矢先の7月6日。5月に申し込んでいたスマブラ大会をキャンセルし忘れていたことが発覚。直前のキャンセルは運営に迷惑がかかるため参加…と思いきや貯金も時間もないので不参加…と思いきや「1万円出すから大会来てくれ」と後押しされ参加を決意。Twitterでつぶやいたところ、複数人からネガティブな声がかかり精神的に不安定になっていた私はツイキャスで感情を爆発させてしまいます。この時には本当に主催をやめてしまおうかと考えましたが「主催を続けるだけで立派」というアドバイスを思い出し、なんとか踏みとどまりました。

 

いや、自業自得では?

そうです。6月といい7月といい、自分で勝手に自爆しているだけでした。

 

ちなみにスマブラ大会は大雨で中止。会場周辺が大雨の影響で水没してしまいました。この雨はのちに西日本豪雨と呼ばれます。

 

 生放送の話も進み、仲邑飛鳥さんやボトルさんと打ち合わせ放送をしました。12月に「誰?」と言ってしまった仲邑飛鳥さんをゲストにお呼びする勇気。その仲邑さんはそんなことは気にせずに、生放送で気をつけるべきことやアドバイスをしていただきました。要所要所の段取りなどはボトルさんと仲邑飛鳥さんの意見がなければ完成していないと思います

 その他にすさんの安否不明、ゴムーンさんがかなり危ない状態になるなど、かなり胃の痛くなる案件が続きました。その他、TwitterのTLで「つらい」というような呟きをみかける度に胸が苦しくなる思いでした。

しかし、7月も終盤になると徐々に「音MDM提出しました!!!」と声が上がり「大丈夫か…?」という雰囲気から大成功に向けてボルテージが上がっていく気持ちいい感覚は忘れられません。

 

8月「本番」

 7月下旬から大学ではテスト、MDMでは前夜祭用のバラエティMAD制作、生放送に向けての調整とかなり忙しい状態でした。2月にはこのような状態になることはわかっていたので勉強はしっかりしていました。しかしバラエティMAD制作が一向に捗りませんでした。そもそも、バラエティMAD制作の締め切りは6月いっぱいです。1ヶ月も過ぎてます。たくさんの人々に素材の協力を頂きましたが8月2日にバラエティMADの制作中止を判断。前夜祭と本番に力を入れることにしました。

 8月3日、前夜祭放送までの準備期間は30分しかありませんでした。30分のうちの10分は不具合によるニコニコのパスワード変更に費やしたため、実質20分。ろくに心の準備もできずに前夜祭突入。結果は散々でした。口を開けば失言が出てしまう私の口をゲストの岩鉄さんが抑えようと奮闘する。そんなように映っていたことでしょう。とても恥ずかしい有様でした。「明日の本番は絶対に失敗できない」。自分は「あほ」だったのだと心に刻み、アホはアホなりに最大限やってみることにした。

 8月4日、あれだけやることがあったのに、この日にやることは台本を作って心の準備をするだけです。柄にもなく、朝には2時間ほど散歩をしました。生放送のバックには強力すぎる運営陣が控えていたので放送直前の気分は「鉄壁の守備の前で投げる野球のピッチャー」でした。野球はしたことありませんけど。放送が始まってしまえばあとはなるようになる。とはいえ、結構ピリピリしていたので隣にいた放送担当の方に強く当たってしまいながら放送が始まりました。

 

 なんとか放送が終了。自分はそこまで良い司会ではありませんでしたが、ボトルさんや仲邑飛鳥さんが穴をカバーしてくださりました。特に仲邑飛鳥さんの「飛鳥リサーチ」やプロ顔負けのトーク力にはかなり救われました。

 

 生放送中は集中していたので周りの反響などは全くと言っていいほど観ることができなかったのですが、終了後に確認してみると、トレンド1位を始め、音MAD界隈内外様々な反響をいただき、しかもそのほとんどがポジティブな反響であったためとてつもない達成感に包まれました。放送を見てくれた視聴者の皆様、本番に向けて動画を制作してくれた参加者の皆様、バックアップをしてくれた運営陣、告知などに関わってくださった皆様すべてに感謝の気持ちが溢れました。

 

 

波乱に満ちた8ヶ月でしたが最後にこう言えてよかったです。

音MAD DREAM MATCHを主催してよかった!